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2012年12月21日金曜日

異刷から考えること。

S028 鹿児嶋県暴徒熊本乱入圖


 今回静岡県立中央図書館から提供を受けた三作品は、すべて、国会図書館に異刷が存在している作品である。これまで、西南戦争に関連する錦絵をリストアップする目的からなるべく重複した絵は避けてきた訳だが、今回たまたま三作とも重複作品となった。重複していると、当然もう一枚の絵と比較していくことになるのだが、今回は、三種三様の展開があって、非常に刺激的だった。

 まず、「S026 征韓論之圖」では先日投稿したように、「名指ししない配慮のある」(Yajifun Sさんの表現、的確です。)明治天皇の肖像が隠されていた。

 次に、「S027鹿児島勇婦揃」の静岡県立中央図書館版では「背景の幕のぼかしを取りやめて、薩摩のマークが際立つようにした。旗も目立つようにした。そして、色のバランスを考えて馬の色を変えた。さらに、説明を補足して、乳飲み子の存在を強調し、名札の並びを整えた。」といった変更がなされている。

 さらに、「S028 鹿児嶋県暴徒熊本乱入圖」はなんと、タイトルが、「081鹿児島戦記 〔熊本城の戦〕 」から替わって刷られている。これは、気づくのに時間がかかった。絶対に見たことあるぞと思いつつ、タイトルで検索しても全然ヒットしないのでたどり着くまでにかなり時間を費やした。見つけた時は本当にびっくりした。この作品に関しては、どっちが先か、まだまだこれからの検証をまたねばならないが、今回のこの三作品は全く想像もしていなかった展開で、わくわくしながら作業を進めることができた。

 詳しくは、是非是非ホームページの方でご覧下さい。

2012年12月19日水曜日

描かれていた、明治天皇。

 静岡県立中央図書館から12月分のデータを受取った。最初の一枚は、楊洲周延の「征韓論之圖」でこれは同じものが国立国会図書館にも収蔵されている。作業をしながら関連の征韓論之圖を見ていたら面白いことに気づいたのでご報告したい。
以下は、西南戦争錦絵美術館からの引用。


S026 征韓論之圖 から
 この画題では周延は3種類の絵を描いている。
 095征韓論之圖では御簾は左図に描かれておりその前を固めるのが三条大政大臣・二品有栖川宮・岩倉右大臣であるが、13名の人物が描かれており、名札は12枚である。
 096征韓論之圖2では、このページでご覧の通り、御簾は中図にあり、前を固めるのは岩倉右大臣と二品有栖川宮である。また、人物は17名、名札は16枚である。
 097征韓論之圖3では左図に御簾が描かれ、前を固めるのは仁和寺宮・有栖川宮・岩倉具視公である。人物は16名、名札は16枚、一見合っているのだが、実は右図の後ろの方の人物の数と名札があっていない。実際のところ名札は15枚と見なしていい。

キヨッソーネ画
 さて、すべての絵で、人物の数が名札より一名多い。そして、その人物はいずれも御簾の真下に描かれている。もうお分かりだろう、明治天皇が、はっきりと絵の中に描かれていたのである。
明治神宮のホームページによると「明治天皇の御尊影といえば代表的なのが明治神宮宝物殿にある御肖像画です。(中略)明治21年、陛下37歳(数え年)のときの御尊影です。実は撮影されたのではなく、コンテ画で描かれたのでした。」
とある通りキヨッソーネが描いたものが、最も有名である。そして、写真嫌いの明治天皇は写真もそれほど残っていない。その意味で似顔絵ではないが、明治天皇の姿を描いた絵の存在は珍しいと言っていいだろう。

日清戦争錦絵美術館の方では「B006  朝鮮豊島海戦之圖」を追加した。これで大英博物館所蔵の作品は一段落したことになる。今後は国会図書館所蔵の作品を英語ページに追加していく作業を始めることになる。

2012年12月17日月曜日

1894 or 1904 ?  秋山好古かも。


B005 我騎兵隊ノ将校斥候定州南門附近二於テ頑強ナル敵之砲火二應ジ勇闘猛戰竟二之ヲ撃退定州ヲ占領ス
作者について、月三という名で調べていたら、尾形月三という名がでてきて、日清戦争錦絵でもおなじみの尾形月耕の子供であったので、飛びついて、その作に間違いないとした訳だが、誕生年を見てびっくり。明治20年の生れなので、制作時7歳となる。いくら早熟な天才肌の2代目であったとしても、また、集団制作の浮世絵であるからといっても、ありえないだろう。そこで、別人を捜さなくてはならないのだが、なかなか見当たらない。月耕自身が月三を名乗った時期があるのか、または、弟子でもあった妻の田井喜久が名乗っていたのか、あるいは、別の弟子か?

 早稲田大学文学学術院助教の向後恵里子は「日露戦争を描いた画家たち—非従軍画家による戦争イメージの形成」の中で「戦争錦絵・石版画は、錦絵自体の求心力が衰えたことで不振に終わったが、戦争初期には小林清親をはじめ楳堂小国政(柳蛙)、尾形月三(圓整)、右田年英(梧齋)などが活動した。」と月三(圓整)の名をあげているので、この錦絵は日清戦争時のものではなく、日露戦争時のものである可能性が大きい。
各作品のサインと印を比較してみる

 大英博物館はこの作品を1894年のものとしているが、大英博物館には他にも3作の月三の作品が収蔵されており、それはいずれも、1904年のものである。つまり、日露戦争の時の作品ということだ。サインや圓整の印は同じなので、この作品は日露戦争時のものと断定してまず間違いないだろう。

 画題には騎兵隊とあるので、騎兵第一旅団(旅団長 秋山好古)を描いたものかもしれない。

 

日清戦争錦絵美術館 英語版

 日清戦争錦絵美術館の全作品のデータの確認とズームツールの導入が完了した。多少は信頼性と利便性が上がったと思う。次の作業として、前に許可を得ていたがなかなか着手できないでいた大英博物館の所蔵作品を追加していくことにした。さらに、この機会に前からやりたいと思っていた、英語版にもチャレンジしてみることにした。大英博物館の所蔵作は今のところ7作品しか見つけていないだが、すべてに英語で解説というか情報が載っているので、それを利用してやってみようという考えだ。つたない英語だが、日本語が全く読めない人には多少の手がかりにはなるだろうから、チャレンジしてみる。
今のところ以下の5作品がご覧いただける。もちろん日本語の方にも追加しております。


2012年11月23日金曜日

静岡県立中央図書館から11月分の3作品追加。


 静岡県立中央図書館の所蔵作品の中から

S025島津家英雄揃      の3点の西南戦争錦絵を追加した。

S025島津家英雄揃
 先月ご紹介した、早川松山の皇朝高名鏡のシリーズを2点と島津家の英雄を並べた1点である。島津家英雄揃は島津の殿様の家系、そして、その役人で沖縄や南西諸島で功績のあった人物をとりあげているようだ。もちろんその中に西南戦争の賊将と官軍側についた人物が入り交じっているのだが、どういう基準の人選により並べたのかがわかりにくい。当時の民衆には一目瞭然の配置であったとすれば、とても気になる所だ。

2012年11月8日木曜日

10月の追加作品

静岡県立中央図書館の所蔵作品のうち以下の三作品を追加した。

S020有栖川宮天盃拝受の図


S021皇朝高名鏡No.2


S022勅使鹿児嶋江到着圖


征討総督有栖川宮に注目してみた。「皇朝高名鏡No.2」の登場人物、大塔宮を調べていて大英博物館に不完全な三枚続きを発見したのでそれも追加した。


B21早川松山大英博物館蔵 刷B
「右ハ都テ寫真の侭ヲ寫セシモノニテ次第不同ヲ敢テ論セス看 官夫是ヲ諒セヨ」
として、大塔宮、山縣有朋公、有栖川宮、東伏見宮元仁和寺宮、和気清麻呂、梅田源次郎、嶌津久光先公、大久保利通公、水府齊昭、万里小路藤房、黒田清隆公、小島高徳と尊王に功のあった忠臣を並べている。タイトルは多分右図にあったため不明である。どこかで右側を発見したら組み合わせてみたい。不完全な刷が3種類あった。

2012年10月13日土曜日

9月の追加作品

静岡県立中央図書館所蔵作品の中から以下の三作品を追加した。

S017奇星之實説
「S019西郷隆盛霊幽冥奉書」の一部
S018近世人物誌 第十七 西郷隆盛
S019西郷隆盛霊幽冥奉書

 9月24日は西南戦争終結の日、つまり西郷隆盛の命日の日である。そこで西郷隆盛を描いた画を集めてみた。特に、3番目の「さいごうたかもりのれいゆうめいにほうしょす」という画は西郷隆盛の霊が建白書をもって意見している図である。しかし、なんという表情。思わず、山上たつひこの漫画を思い出してしまった。


2012年10月5日金曜日

日の丸横一の標章 想像図の訂正

 前々回、日の丸横一の博愛社の標章を想像図として、示したが、日本赤十字社の熊本県支部のホームページで 梶山哲生さんが黎明期の博愛社の歴史を精細に調査して連載されている。その中に実物の写真があり、想像図とは違っていたのでお伝えする。
連載は「日赤発祥の地・熊本」で連載29回(平成24年9月号)にその記事はある。

記事を参考に作成した標章は次のようなものだ。
日本赤十字社の熊本県支部の記事を参考に復元した

八月の静岡県立中央図書館追加作品

西南戦争錦絵美術館に以下の4作品を追加した。いずれも静岡県立中央図書館の所蔵品である。

S013鹿児嶋新誌 三号
S014鹿児嶋新誌 五号
S015鹿児嶋新誌 七号
S016鹿児嶋新誌 九号




 今回は鹿児嶋新誌の所蔵品すべてであることと、豊原國周の作品が西南戦争関連が一段落する事もあって特別にお願いして、4点ご紹介させていただける事になった。
 

 それぞれ、池邉吉十郎、村田三介、前原一格、池上四郎の列伝である。各人に当時の人気歌舞伎役者が見立てられている。実際に演目があって演じられたのかどうかは不明。文は長谷川一嶺である。

2012年10月4日木曜日

赤十字の標章について

075平壌激戦我軍大勝図から 部分
 日清戦争錦絵の中の「075 平壌激戰我軍大勝圖」 の見直し作業をしていて気づいた事がある。前に新島八重がこんな姿だったのではとブログに書いたが、その看護師の腕章である。はっきりと赤十字の標章がある。2人とも全く同じ姿なので多分制服であろう。赤十字の標章の事を調べた所なかなか面白いのでご報告しよう。



博愛社創設許可の図
寺崎武男 筆




 日本赤十字は西南戦争時に佐野常民や大給恒(おぎゅうゆずる)らが熊本洋学校に設立した博愛社が始まりであるが、その設立にあたっては、敵味方の区別無く救護を行う精神が政府に理解されず、征討総督である有栖川宮熾仁親王の私的な認可で設立された。 
 当時の標章については、1877年のイラストレーテッドロンドンニュースの絵の中で横浜港から出発する官軍の兵士の中に赤十字のマークの入ったリュックを背負っている者が描かれている。ただ、この時期は博愛社が、戦地熊本で活動していたのであろうし、後で述べるように赤十字の標章が使用されるようになったのが、10年後なので、この兵士は、博愛社の関係者というよりは、若き国際赤十字活動(1863年から)を知るイラストレーテッドロンドンニュースの記者の思い込みか、あるいは、勇み足、つまるところ創作では無いだろうか。ただし、赤十字の標章の意味する所は政府でも認識していたはずである。
西南戦争で西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍の画の中で右側に赤十字が描かれたリュックを背負った兵が描かれている。Troops For Satsuma (Embarkment,)Illustrated London News1877
 西南戦争錦絵の中では S012 伝聞民之喜 つたゑきくたみのよろこび という絵を7月に追加し、前々回のブログでもご紹介済みだが、この中に「鹿児嶋士族不平を起し朝意にあやかり その昔加藤清正の遺言を聞知して熊本の要所を頼みに官軍と抗戦数日に至り 官兵も傷者少なからず これにより各所に病院を設置し医員数十名看病卒数百人にして厚く治療を施さるることたとえにものなし ここにかけまくもかしこき朝廷 深く憂慮せられ御慰問の使を再度遣され 皇太后宮皇后宮にも御親製の綿撒糸(めんざんし)その他をたまわり 撫恤(ぶじゅつ)下さるるは実に雀躍の至りならずや これを全国に告げ 共に歓喜して奉謝せずんば あるべからず」という記事があり、皇室と博愛社の深いつながりをよく示している。
S012 伝聞民之喜 つたゑきくたみのよろこび
 さて、いよいよ本題の赤十字の標章であるが、博愛社が最初に赤十字の標章を使用しようとしたとき、三条実美が「これは耶蘇の印だ」といって認めなかったため、設立から約十年間は日の丸の下に横棒を一本引いて博愛社の標章として使用していたという事だ。
左が博愛社が10年間使っていた日の丸横一の標章の想像図(筆者作成)、右は現在の赤十字の標章
(ウィキペディアより)
 1886年に明治政府がジュネーブ条約に調印したことで1887年博愛社は改称して日本赤十字社となる。そして、その時に赤十字の標章をそのまま採用した事になる。赤十字社はその活動内容からして、標章を一番大切にしている。つまり、戦場のなかで中立である事を敵味方にはっきりと伝える必要があるからである。そして、緊急事態でもそのサインが使用できるよう標章に関しては、デザインの厳格な規定は無い。そのかわり、類似したあらゆるサインが禁じられているのである。1887年に日本赤十字社としてスタートした時点で、その標章は現在の物と同じになったという事である。 現在でも、赤十字のマークには複数種類がある。十字はキリスト教の印だとして、嫌うイスラム教国は赤新月を使い、パーレビ王朝のイランは赤獅子太陽旗を使っていた。イスラエルはダビデの赤楯旗を使いたかったが、認められず、赤十字の構成メンバーにはなっていなかった。2005年にそのあたりを解決するプランとして赤の菱形を象った宗教的に中立な第三の標章「レッドクリスタル」が正式に承認された。
上段の左は赤十字、中が赤新月、右は赤獅子大陽
そして、下段が第三の標章レッドクリスタル(いずれもウィキペディアから)
 レッドクリスタルは単独で用いる以外に中の白地の部分に独自のマークを入れても構わないこととなり、中に「ダビデの赤盾」のマークを入れた標章を用いることで、イスラエルの赤盾社は国際赤十字への加盟が出来る事となった。同様に国内での宗教勢力のバランスから赤十字・赤新月の標章を併用したいと主張しているエリトリア等の国や地域でも、「レッドクリスタル」の中に赤十字・赤新月両方のマークを入れた標章を使用することで国際赤十字への加盟を期待しているそうだ。
左がダビデの赤楯(不認可)、中はレッドクリスタル、右はレッドクリスタルの中に
ダビデの赤楯を配した標章。これによってイスラエルは国際赤十字に加盟できる事となった。
以上、この項は「明治日本と赤十字」吹浦忠正ならびに赤十字社 ウィキペディア日本語版 最終更新 2012年10月1日 (月) 11:48 (UTCの版)http://ja.wikipedia.org/wiki/赤十字社を参考に構成した。画像は日清戦争錦絵美術館(国立国会図書館)ウィキペディア日本語版の赤十字の項、佐野常民の項、西南戦争錦絵美術館(静岡県立中央図書館)のものを使用した。赤十字の標章に関しては改ざんや乱用が厳しく禁じられている。この項において、想像図として作成した博愛社の日の丸横一の標章は、あくまでも赤十字のサインの変遷を研究するための参考資料として作成した物で研究以外の意図は無い事をお断りしておく。最後に、1877年のイラストレーテッドロンドンニュースの横浜出航の赤十字を背負った兵士が両手に旗をもっており、旗のデザインは横に一本の直線を引いた物に見える、モノクロなので色は不明。旗の種類や意味などご存知の方は、ご教示くださいませ。

2012年8月1日水曜日

招き猫の御届印



 日清戦争錦絵にズームツールを装備しながら記事やデータを確認・見直ししている。その中で面白い版元を発見したのでご紹介しよう。
 日本橋区小傅馬町三丁目十一番地の版元 長谷川園吉は御届印を招き猫の枠の中に書き込んでいる。日清戦争錦絵にとりあげている長谷川園吉出版のすべての作品がその形式になっている。
 左図がその実際であるが、上から順に
となっている。
 ウェブ上で版元長谷川園吉を探した所、江戸東京博物館所蔵の「東京名所上野山下ステション開業式気車発車之図」がまず見つかった。明治21年1月の発行であるが普通に四角に囲んであるだけである。
 ただし、このにぎやかな絵のタイトルを囲んだ図柄は蒸気機関車の動輪であり、紅白の旗と提灯で埋め尽くされた景色を右上で文鎮のようにしっかりと押さえつけている。この画はそうやって押さえつけていなければ、その文鎮の隣で花火とともに空中に舞い上がっている、魚やだるま、金魚、ねこ、こうもり傘、日の丸の旗、そして、紳士などと一緒に画面全体が、はじけてしまいそうな騒がしい絵なのである。長谷川園吉のプランかどうかは定かではないが、少なくとも、こういう仕掛けを嫌いな版元ではなかったようだ。面白い画なので是非一度ご覧下さい。
 他に野田市立図書館所蔵の「b04 朝鮮京城 大鳥公使大院君ヲ護衛ス」(楊斎延一画、明治27年刊)はやはり招き猫型である。
 日清戦争開戦で錦絵のブームが再来し、よしとばかりに、制作し、売りまくった版元の気合いと、デザイン感覚、洒落っ気が合わさってこんな印になったのだろう。

2012年7月29日日曜日

七月の追加作品


S012伝聞民の喜

S010西國紀聞出陣問答
S011羅喉星見立競当九星
S012伝聞民之喜
 以上三作品を追加した。いずれも静岡県立中央図書館所蔵品である。「伝聞民之喜」は西南戦争開戦後2ヶ月余で設置された官軍の病院を後方から支えた、英照皇太后(明治天皇の嫡母)と昭憲皇太后(明治天皇の皇后)を取り上げている。絵としては女官が薬液に浸したガーゼ(綿撒糸めんざんし)を準備している姿を写しているが、この程度で、民が雀躍する程のありがたみがあったのかは疑問であるが、華やかさは伝わっている。昭憲皇太后は『維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した(赤十字社の正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后がたまたま被っていた冠が桐と竹の組み合わせで出来ていた事から、「これがよかろう」という事で決められたという)。1912年(明治45年)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后が10万円(現在の貨幣価値に換算すれば3500万円ともいわれる)を下賜した。赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金 (Shōken Fund) を創設した。この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。』(昭憲皇太后  2012年7月25日 (水) 21:11 UTCの版 ウィキペディア日本語版 http://ja.wikipedia.org/wiki/昭憲皇太后)とあるように、社会福祉に積極的に取り組んだ面があるようだ。残念ながらそのことを充分に伝える絵にはなっていないといっていいだろう。想像で紡いだ画の限界を示しているのかもしれない。


075平壌激戦我軍大勝図
 以前にご紹介した、日清戦争時の看護師の絵は最前線で活動する様子を活写しているように思われるが、そういうリアリズム(と言い切っていいかは疑問が残るが)が発揮されるためには現地で取材を行うという、今では当然の行動が必然であったであろう。その意味で、「伝聞民之喜」は未だ過渡期の作品であり、絵師の取材する力の弱点を如実に示しているといえるだろう。


056西国鎮静撫諸将賜天盃之図
 実際、「伝聞民の喜」は左に示す、西南戦争終了後の功労の宴を描いた画「西国鎮静撫諸将賜天盃之図と大してイメージは変わらないのである。複数の女性が登場し華やかな色遣いで美しく表現できる、宮中という題材はその絵の本来のテーマをも霞ませてしまうという、実は非常に危うい画題でもあったのだ。


 七月中に「日清戦争錦絵美術館」の40枚目までズームツールを導入し、記事の中味を見直した。この後は、すべてにズームツールを装備して、また、記事をさらに整理していきたい。大英博物館所蔵の日清戦争錦絵が7点程確認できているので近いうちに追加したい。

浮世絵探検 高橋克彦


 高橋克彦著「浮世絵探検」は浮世絵に関する対談集で、ゲストが多彩でとても面白い。1997年岩波書店刊なので、少し古い本であるが、文庫版も出ていて、手軽なので時々読み返している。その中で、宮地真人( 東京大学史料編纂助教授・当時 現・東京大学名誉教授)が次のように語っている。

「ペリーが来たという事が歴史的な事件ではない。アメリカの黒船は、アジアでもアフリカでも、どこでも来ている。どこでも来ているけれども、あれだけ大騒ぎになったのは日本だけだという事が問題なのだ、と。来たということよりも、どう受け止められたかという問題を視野に入れないと、民衆レベルの意識の問題というのは出てこないのではないか。そういう視点で、近世における非文字資料、とくに画像資料が何を担ったのかというのは、相当大事な問題だろうと思っています。」

 正鵠を射るとはまさにこのことで、「西南・日清戦争錦絵美術館」もこの視点を大事にしていきたいと思っている

2012年7月6日金曜日

明治の少年隊

 明治11年に新富座で上演された歌舞伎「西南雲晴朝東風」の芝居画から。西郷隆盛、篠原国幹、桐野利秋ら薩軍のリーダーたちの決起から敗北までを描いている。役名は、それぞれ西條隆盛、簑原国元、岸野利秋などと変更している。



 中に、少年隊の旗を掲げる、三人の美少年の姿があったので抜き出してみた。「右手に血がたな 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年」の田原坂の歌詞が、思い出される。
S008西南戦争(静岡県立中央図書館 蔵)から。


 6月後半から現在までに、以下の作品を追加した。
静岡県立中央図書館から豊原国周の芝居画を3点。


国立国会図書館から

小林清親の五枚続の作品、初登場の三代歌川広重の作品など。

大英博物館から

数種類の異刷があり、比較できる。

国立国会図書館と大英博物館に関しては、三枚完全にそろっている物で著作権をクリアして公開許可の出ている物は、今の所すべてご紹介できたと思う。静岡県立中央図書館の作品を、月に3点づつ追加していく他に、今後は画像を転載できない作品(他施設の物を含めて)をリストアップして、西南戦争錦絵の全貌に少しずつ迫っていきたいと考えている。



2012年6月18日月曜日

どっちが先か考えてみた。

画像をクリックして拡大しサムネイルを選択して、画像を切り替える事ができます。間違い探しのようで面白い。

045先刷り

D103後刷り
 国会図書館に2枚の「九州植木口激戦図」がある。自分でふった番号でいうと045D103の2枚だが、細部を比較して面白い事が判明した。045が先に刷られた版でD103は後刷りだと言うことである。その根拠を後刷りのD103を基準に書いてみよう。

その1、右図の桐野利秋の下半身でズボンの模様が黄色系に着色されていない事。
その2、同じく桐野の刀のさやが朱色に着色されていない事。
その3、中図の野津少将の着衣において徽章や肩飾りが着色されていない事。
この3点は先に刷られた045の方が絵師の色指定を忠実に再現していると思われる事から、雑になっているD103は後刷りである。続いて、

その4、右図の桐野に肩書きがつき、一隊大将と情報がより詳しくなっている。
その5、右図で村田三介と斬り結んでいる官軍兵の耳や指に血のりが増えている。
その6、桐野の左腕に包帯らしきものが追加されている。
4から6の三点は情報が精細になっている事と表現が凄惨さを増し、エスカレートしている事からD103が後刷りである事を補強していると思われる。その他にもタイトルの地の色が赤から白に変わったり、後者では背景にぼかしを多用してコントラストを強調していたり、と刷師の工夫の跡が垣間見える。

果たしてどれくらいの期間で別の版を用意して後刷りを販売していたのかは、御届印も刷り込んであるので定かな事は言えないが、きっと、驚く程短い期間の間にこうしよう、ああしようというチームの模索が繰り返された事であろう。刺激的な二枚といえるだろう。

2012年6月8日金曜日

日清戦争錦絵 実見!

  大阪梅田はカッパ横町の古書街で日清戦争浮世絵の実物を見てきた。店は中尾松泉堂。画は小国政の「牛荘市街大戦争之図」である。残念ながら写真はNGでした。
仕事の帰りにふらりと立ち寄った所、戦争をテーマにして50セットくらい積み上げてあった。厚紙の台紙を入れて、ビニール袋の中に3枚セットで入っている形。ほとんどが武者絵で、残念ながら西南戦争関連はなかった。
「日清戦争錦絵」が全部で3セット。あと、よくわからないが、明治後半らしきものが2、3点あった。気になったのが、小国政の「牛荘市街大戦争之図」ビニール袋のままでは、裏面しか見えず、表が透けて見える程度では色や構図がよくわからない。はみだした余白の情報を読んで「日清戦争錦絵」らしいと見当をつけたものの袋から出して広げる程図々しくもなれない。ためらって眺めていたら、ご主人が親切にも出して広げてみせてくれた。余白をトリミングして、裏打ちの上、一枚の画としてみられるようになっていた。色は信じられないくらい鮮やかである。右側前景にいる日本兵は紫色の軍服に身を包んでいるのだが、ほとんど褪色していない感じだった。左側に倒れている清国兵は薄い紺の服装でこれも鮮やかである。左側奥に向かって遠景=最前線が広がっており、視線がそちらに誘導される構図になっている。炎や煙が派手に立ち上っているにもかかわらず奥の方ほど色が薄く仕上げられているので、どぎつくはなく、遠近感を感じさせる画になっている。値段はセットで2万4千円。高いのか安いのか分らないが、前に、そばと米の値段から價六銭の価値を検証した事があって、(價六銭参照)その時の結論は西南戦争錦絵のものであるが、三枚続き600円から2400円という事だったので、今は10倍以上の値段になった事になる。120年もたてば当然か!?
デジタルデータは野田市立図書館のライブラリーで見る事ができる。「b-40牛荘市街大戦争之図」である。

2012年6月3日日曜日

9作品追加

静岡県立中央図書館の五月分を追加した。以下の三作品。なかでも「鹿児嶋戦場名覧」は官軍・薩軍の番付である。
「鹿児嶋戦場名覧」


大英博物館からは二作品。


国会図書館のデジタル化資料のページで永島孟斎を検索した所西南戦争にカテゴライズされてない作品が何点かあったので、許可を得て掲載した。神風連の乱の作品は、参考作品として。他の絵師にも未分類のものがあるかもしれない。